高校の教室で読んだはずの『こころ』を、何も覚えていない。先生とKという名前がかすかに残っているだけで、誰が何をしたのか思い出せない——この記事は、そういう夜のためのものである。夏目漱石『こころ』のあらすじを結末まで書く。Kの最期と遺書の中身にも触れるので、何も知らずに読み直したい場合は、途中で止めて原典に移ってほしい。
この記事が明かす範囲(結末の扱い)
本記事は、物語の結末、Kの死の事情、先生の遺書が明かす過去まで、すべて書く。あらすじを検索する読者の多くは、筋を思い出したうえで読み直すかどうかを決めたい人だと考えるからである。
結末を知りたくない場合の線引きも示しておく。次の「短いあらすじ」の節までは、遺書が届く手前で止めてある。そこから先の節に進まず、青空文庫の原典を上から読み始めれば、まっさらな状態は保てる。
短いあらすじ(結末なし)
語り手の「私」は、学生時代の夏、鎌倉の海辺で一人の男と知り合い、その人を「先生」と呼ぶようになる。東京に戻ってからも先生の家に通うが、先生は世間との交わりを絶つように暮らし、月に一度、雑司ヶ谷の墓地にある誰かの墓へ通っている。誰の墓なのかは語らない。
先生は自分の過去を語ろうとせず、適当な時期が来たら話すと約束したまま、多くを明かさない。やがて「私」は大学を卒業し、父の病気のため郷里へ帰る。明治天皇の崩御が報じられ、父の容体が重くなったある日、先生から分厚い手紙が届く。読み進めるとそれは、先生の過去のすべてを記した遺書だった。
小説は「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部からなる。下は、この遺書の全文という体裁で書かれている。
結末までの流れ
ここからは遺書の中身、つまり結末に踏み込む。
先生は学生時代、両親を亡くしたあと、信頼していた叔父に財産をだまし取られ、人間そのものを疑うようになった。東京の下宿で出会った未亡人(奥さん)とその娘のお嬢さんのそばで、閉じた心が少しずつほどけていく。
そこへ先生は、郷里を捨てて苦学していた親友Kを、同じ下宿に呼び寄せる。Kは求道的な男で、自分に厳しく生きることを信条にしていた。そのKが、お嬢さんへの恋を先生に打ち明ける。先生は動揺し、Kが日頃自分に課していた禁欲の言葉を盾にとってKの恋心を押さえ込み、そのうえで先回りして奥さんに結婚を申し込む。縁談がまとまったことを知ったKは、ある夜、自室で自ら命を絶つ。残された書き置きに、恨みの言葉はなかった。
先生はお嬢さん——のちの妻、静と結婚する。しかし、叔父を憎んだ自分がKに対して同じ種類の裏切りをしたという意識から、生涯逃れられない。明治天皇の崩御と乃木大将の殉死の報に触れた先生は、自分の生きた時代が終わったことに自らの死を重ね、その決意とともに過去のすべてを「私」への遺書に書き残した。遺書は、妻にはこの過去を知らせず、自分の記憶だけを受け取ってほしいと頼んで終わる。
人物と関係
- 私 — 語り手。先生を慕う学生。遺書の受取人となる。
- 先生 — 遺書の書き手。叔父への不信とKへの罪を抱えて生きてきた。
- K — 先生の親友。同じ下宿でお嬢さんに恋をし、命を絶つ。
- 静(お嬢さん) — 下宿先の娘で、のちの先生の妻。先生の過去を知らされない。
- 奥さん — 静の母。下宿の主人。
- 叔父 — 先生の財産をだまし取り、先生の人間不信の起点となった人物。
「私」と先生、先生とKという二組の関係が、時間を挟んで重なる構図になっている。若い「私」が先生に過去を求める上巻の関係は、かつて先生とKのあいだにあった信頼の裏返しとして読み直せる。
この作品が問うもの(一つの読み)
「こころ 意味」と検索する人が知りたいのは、たぶん教科書的な主題の一覧ではなく、この小説を今読む理由だろう。定番の読みとしては、エゴイズムと罪、明治という時代の終わり、恋愛と友情の衝突が挙げられてきた。
そのうえで、一つの読みを置いてみたい。『こころ』は、人を信じられなくなった人間が、最後にたった一人を選んで、すべてを打ち明ける物語だと読める。上「先生と私」の対話に、こんな一行がある。
「私は淋しい人間です」と先生がいった。
誰にも過去を明かさず生きてきた先生が、遺書という形でその孤独を「私」にだけ手渡した。そう読むと、下巻は罪の告白であると同時に、先生が生涯で一度だけ行った信頼の行為にも見えてくる。
これは一つの読みであって、正解ではない。時代の終わりに殉じた男の物語として読む線も、何も知らされない静の側から読み直す線もある。どれを取るかで、下巻の同じ頁がちがう表情を見せる。
原典の一節
書き出しの二文を、原文のまま引く。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
最初の二文が、すでに「名を伏せたままの告白」というこの小説の形を予告している——と読むこともできる。あらすじを知ったあとで戻ると、この書き出しの静かさが少しちがって見えるはずである。
引用は青空文庫版に拠った(底本: 『こころ』集英社文庫、集英社)。全文は図書カードから無料で読める。
終電の音が消えた頃、カウンターの端で、綴は結末の扱いだけを聞いた。今夜のチヒロは「結末まで」を選んだ。だからこの記事も結末まで書いた。筋を思い出した夜にもう一度開くなら、下「先生と遺書」の最初の頁からがよい。全部を読み直す計画は要らない。遺書の最初の一頁だけで、今夜は足りる。