夏目漱石は、教師を経て職業作家になり、ユーモア小説から人間の内面を掘る長編まで書き分けた作家である。全部を年代順に読む必要はない。この記事は喫茶の提案として、最初の一冊の決め方と三冊の順路だけを示す。
最初の一冊とその理由
候補は三つに絞る。
- 迷ったらこれ: 『坊っちゃん』。江戸っ子の新任教師が四国の中学校で騒動を起こす物語で、語りが速く、一晩で読み切れる。1906年、雑誌「ホトトギス」に発表された。
- この条件ならこれ: 静かな夜に、人の心の暗がりまで付き合う覚悟があるなら『こころ』。1914年に朝日新聞に連載された長編で、漱石の後期を代表する一冊である。
- 最初は見送る: 『明暗』。最晩年の長編で、未完のまま終わる。漱石の語りに慣れてから開くほうが、閉じない結末とも付き合いやすい。
順路 — 三冊で辿る漱石
『坊っちゃん』→『三四郎』→『こころ』の順を提案する。
『坊っちゃん』で漱石の語りの速さとユーモアに乗る。次の『三四郎』は、熊本から上京した大学生が都会と恋に戸惑う青春小説で、笑いから内面へ橋を架ける位置にある。最後に『こころ』で、先生と遺書の重さまで降りる。軽いものから重いものへ、階段を一段ずつ降りる順路である。
三冊のあいだに休憩を挟みたくなったら、短い『夢十夜』が向く。十の夢を並べた掌編連作で、どの夜から読んでもよい。
作風の入口
漱石の入口は二つある。一つは『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』の系統で、笑いと風刺で人間を眺める。『吾輩は猫である』は1905年から「ホトトギス」に連載された出世作で、猫の目から知識人たちを観察する。長いので、通読よりも面白い章の拾い読みが向く。
もう一つは『それから』『こころ』の系統で、恋愛と友情と罪の意識を静かに掘る。どちらの入口から入っても、最後には同じ作家の顔に出会う。
挫折しやすい作品と後回しの判断
『草枕』は冒頭の名文で知られるが、筋よりも思索が先に立つ小説で、物語を期待すると頁が止まりやすい。『明暗』は長さに加えて未完である。この二冊は「漱石をもっと読みたい」と思えた後に回してよい。
挫折は読者の力不足ではなく、順番の問題であることが多い。止まったら本を替えてよい、というのがこの棚の方針である。
生涯の要点
夏目漱石は1867年に生まれ、1916年12月に49歳で没した。『吾輩は猫である』で注目され、教職を離れて新聞社に入り、職業作家として長編を書き続けた。没後100年を超え、著作権は消滅している。青空文庫には百点以上の作品が公開されており、主要作は新字新仮名で無料で読める。
版の選び方 — 青空文庫と文庫
今夜すぐ読み始めるなら青空文庫でよい。『坊っちゃん』『こころ』とも図書カードに底本(筑摩書房・集英社の文庫)が明記された本文が公開されている。注釈や解説と一緒に読みたい場合、紙の頁で読みたい場合は各社の文庫を選ぶ。どちらで読んでも、開くのは同じ作品である。
まず『坊っちゃん』のあらすじで筋を思い出してから開くか、何も知らずに最初の頁から入るかは、読者が決めてよい。読み直しの構え方は大人になってからの名作の読み直しにまとめてある。