「古典を読む意味はあるのか」という問いには、立派な答えがよく並ぶ。人間理解が深まる、教養になる、語彙が増える。この記事では、その列にもう一つ効用を足さない。役に立つ保証を出発点にしないほうが、古典を手に取りやすいからである。
「読んでおくべき」から離れる
古典が手に取りにくい理由は、作品の難しさだけではない。「読んでいないと恥ずかしい」という圧が先に立つと、本を開く前から身構えてしまう。義務で開いた本は、数頁で閉じたあとにも義務感だけが残る。
順序を逆にしてよい。まず「読むべき」を外し、面白そうかどうかだけで本を眺める。それでも読みたい一冊がなければ、今は読む時期ではない。読まない自由を認めれば、読みたい気持ちが戻る余地も生まれる。
同じ本文が違って見えるという体験
古典を今読む意味があるとすれば、その一つは、本文は同じなのに読みが変わることを自分で確かめられる点にある。学生の頃に退屈だった場面も、働き、誰かを世話し、何かを諦めたあとに読むと、別の場面のように立ち上がることがある。
たとえば『山月記』の李徴は、学生の頃には他人事として読めたかもしれない。大人になって読むと、選ばなかった道の話として迫ってくることがある。これはあくまで一つの読みで、別の読み方もある。覚えている作品を一つだけ今の自分で読み直せば、見え方が変わるかどうかを確かめられる。
作品の選び方
意味や効用を基準にすると、また義務に戻ってしまう。選ぶ理由は軽くてよい。
- 一場面でも覚えている作品。記憶の断片は、読み直しのいちばん確かな入口になる。
- 短い作品。『羅生門』や『走れメロス』は一晩で読み終わり、「古典が読めた」という事実だけが残る。
- 題名に惹かれる作品。理由を説明できない興味も、義務感より長く本を開かせてくれる。
読み方の型 — 一場面と一節
通読と読書感想まで自分に課すと、古典はまた重くなる。持ち帰るのは、一場面と一節で足りる。今夜読む範囲を決め、心に引っかかった一節があれば、その場所だけを控えておく。解釈は誰かの正解に合わせなくてよい。「こう読める」と自分の言葉で言えたら、その夜の読書はそこで一区切りである。
新訳と旧訳の一般論
翻訳の古典には、著作権の切れた古い訳と、現在も刊行されている新しい訳がある。一般論として、古い訳は無料で読めて時代の香りがある一方、言い回しは今の目に硬い。新しい訳は読みやすいが、有料である。
たとえばシェイクスピアなら、青空文庫に坪内逍遥訳(旧字旧仮名)が公開されている。言葉の雰囲気ごと味わいたい人には、こちらも入口になる。
読みやすさを取るか、無料と時代の香りを取るかは、作品ごとに選び直してよい。訳の優劣まで決める必要はない。
どれで読むにせよ、次の一歩は同じである。棚の地図から一冊を選び、今夜の一場面だけ読む。
